| 2006/05/23(Tue) 03:20:44 編集(投稿者)
なんて言ったらいいのか正直わからなくなってきています。正直、悪意のないレスだと(私が独断で)判断するものに関しては、だいたいその意見が分かる(その心が理解できると言ったらいいでしょうか)のです。
私が今どうしたら良いのか分かりません。これが正直なところです。状況が日々変わっているのは分かりますが、「どうすれば良いのか」と「いつそれをなすのか」が今のところ判断できていません。今のところ、この状況を「あきらめている」「達観している」「傍観している」「思考停止している」などなど、と自ら断定すことはできていません。
私の意見(←一応明記しておきますが個人的見解です)を記すならば、何らかの「策」「意見」「資料」を持ち合わせなければ発言できないという「状態」(これを雰囲気を含む状態、または雰囲気と言い換えても良いと思う)に対してと無関係であると私が判断する記事に対してです。
私には『何らかの「策」を自分で用意して来い』といったような意見が、しばしば出てくるように感じられます。私には「策」がないのならば「発言」するなと言っている様に聞こえます。これは往々にして「正しい」と私は思います。しかし、私には「正しい」場面で使われていないことも往々にして有る様に感じられます。 またこれは「他人任せ」の上に「策」を持っていない人が発言することは「悪」(たたかれる要因なる)と言っているように私には捉えられます。このことも往々にして「正しい」と私は思うのですが、私には「正しい」とは思えない場面でもそういった意見が出てきます。 また、この様なことは、「もっと考えてから」、「自分の意見を持ってから」、「資料を用いて客観的に分かるよう事実を述べよ」といったような意見が出てくる場合にも同様に言えることです。 またこれらのことで私がつまずく事があるのは、記事を読んだが書き込みをしなかった人たち、自らは判断をつけられなかった人たち、自分の意見として形にできなかった人たち、のことを留意しての発言とは、私には捉えられないことがあるためです。
まったく関係のない話をするのは、「お祭りにする」という考えを持っている人たちには「意見の発露」となりえましょうが、スレ主、レス主、掲示板を見る人たちに対して「不快をもたらす行為」となると私は思います。 正直私もどこまで真剣に掲示板を見ているか(自分で判断するところ)分かりませんし、そういったもの(その場の意見に関係のない、また関連する他の事物に対しての意見)が掲示板に有るのは「ある程度」(←に関しては個人差があるのは理解しています。)は、「許容」「受容」「受用」「寛容」する、またはされるものであると私は理解してはいます。 が、しばしば私の理解の範囲を超えて、それ(無関係であると私が判断した記事)が展開されることがあります。
最後に上記の(大きな)2つの意見には、統計資料がないため客観性というものに欠けており、その殆んどが個人的感性から来るものであるために、根拠に乏しいのは確かです。「常識」「マナー」といったものが時代により変化するものであり、個々人の見解には個人差があることも理解しています。また私の「常識」「マナー」と、ここでの「常識」「マナー」とは違うものであり、一致するところもあれば、一致しないところもあるという事も理解しています。それらのことを理解した上で私はこの記事を書いていることを記していおきます。
願わくば「一個人の意見」として捉えた上で、こういう意見もあるのかと思ってもらえれば幸いです。
感想:すごく長くなってしまったorz
|